春日太一『なぜ時代劇は滅びるのか』の感想

『なぜ時代劇は滅びるのか』 春日太一(著)

かなり興奮して読んでしまった。
凋落していく構造をありありと見えた。
テレビ局、製作会社、役者もプロデューサーも実名で批判しているところに著者の覚悟がある。そしてそれだけの危機が迫っているのだと理解できた。

それと同時に、これは時代劇の衰退、壊滅にとどまらず、国内ドラマ全体に関わっている、一種の病魔のような気がしてならない。

この本は、章立てで書かれいる。
第一章で、なぜ時代劇が凋落していったのか。
第二章で、なぜ時代劇はつまらなくなったのか。
第三章で、時代劇役者がいないという現実。
第四章で、時代劇をやれる監督がいないという現実。
第五章で、時代劇を理解できるプロデューサーもいない、脚本家もいないという現実。
第六章で、NHK、大河ドラマでさえも迷走しだしたという現実。

これらを踏まえて、時代劇は滅びてしまうぞと警告している。
いやいや、この構造は、時代劇のみならず、国内ドラマ、国内映画全体に言える。

映画はまだ、国際的にも優れた監督が一部にいるから大丈夫かもしれない。
けれど、深刻なのは脚本家とプロデューサーだ。
国内ドラマの製作をリードするのは、この本でもある通り、脚本家とプロデューサーですすむ。そこに事務所の力関係、スポンサー、テレビ局の意向(コンプライアンス)、そしてここに視聴者の監視があり、どんどん脚本は書き換えられていく。

いったい誰の、何のためのドラマなのか。
もう現場はわからなくなっているのではないか。
本来はそこに責任と信念を持ってやるのが、難関大学を突破し、テレビ局という激しい就職競争に勝った局のプロデューサーだろう。彼らが頑張らなくてはいけないと思う。
しかし聞こえてくるのが、局内の政治である。
結局はサラリーマン集団がドラマをつくるところに無理があるのかもしれない。これが、時代劇という理解をなくし、続いて、視聴率を下げ続ける現代ドラマにも影響しているのではないか。

なぜ時代劇は滅びるのか

第一章を大雑把に要約すると、
時代劇が凋落していく段階は、映画からテレビの時代へ、しかしテレビでもレギュラー枠を失う。そうなると専門の働き手がいなくなる。『金が回らない。仕事が回らない。人が回らない』人材がなくなれば全ては終了する。←今ココなのである

第二章は、時代劇の無理解者たちがテレビ業界に跋扈している。スポンサー、プロデューサーによる発注者たちの傲慢。それに絶対服従の下請けスタッフ。視聴者による身勝手な注文の影響力と読解力の欠如が、総じて時代劇をつまらなくした。

第三章は、時代劇に必要な役者がいない。役者はアーティストから、商品に成り下がった。彼らの大きな収入源が本業の俳優ではなく、CMイメージ。基礎訓練がない役者は、現代劇で自然体の演技で十分という手抜きを知っているので、それを時代劇にも使おうとするから下手が露呈する。その最たる役者が”主演俳優K”であり、”名脇役?O”である。なぜ彼らが上手いと考えられているのか、著者には理解できない。

第四章は、役者もいなけりゃ、監督もいない。怠慢な役者を怒れない監督。大型エンターティメントを知らずに抜擢された哀れな監督。テレビで培われた没個性監督。チャンスは一度きり、生活のために勝負せず、プロデューサーに絶対服従の監督。スケジュール優先で、拙い役者の演技に目をつぶり、<作りこむ>ことをやめた監督たち。

第五章は、プロデューサーの仕事は、『創造性よりも人気者が多く所属する芸能事務所のパイプが重要』から起きているミスキャスト。高学歴プロデューサーたちの無理解、志の低さ。プロデューサー主導の脚本。それに絶対服従の脚本家。セリフに全てを詰めてしまう説明過剰を好む脚本家。役者、監督、プロデューサー、脚本家それぞれが手前勝手な事情に右往左往し、観客が<不在>している。なんのために作っているのか。実態はあってもそこに誰も何もない。

第六章は、NHKの女性プロデューサーによる大河ドラマを主婦層ターゲットにし、重厚なものよりもホームドラマへ転換。その成功と喪失。綺麗事のオンパレードと朝ドラ化。「わかりやすさ」重視の視聴者をバカにしたご都合主義ドラマと人気俳優起用のミスキャストと怠慢。もうテレビでは、まともな時代劇は見られない。

そうして、著者は自ら、愛してやまない時代劇をこの本で業界の惨状を暴露することで介錯したのだった。

だが、時代劇にはまだ希望がある。
著者が語るように、『時代劇の魅力はファンタジーを描けること。現代劇では描ききれないような大がかかりなエンターテイメント作品がつくれること』
わたしも同じことを思う。
現代劇の方が、かえって現代の人にすんなり入ってこないという現状がある。視聴率の低迷、SNSなどに書き込まれるドラマ批判などでわかる。
そこには観客の価値観の多様性があり、多様であるからこそ共感が得ずらい現状がある。
しかし、時代劇は体験したことのない想像の世界であるから、SF同様、ある枷で主人公を苦しめ、解決する目的に挑むという世界観を提示できれば、観客と価値観を共有し、その物語の世界へ誘うことができる。そこに現代社会のメタファーをいれると共感も生まれる。
時代劇は、黒澤映画のように国内を飛び出し、世界を駆け巡る可能性が十分にある。
だから今こそ、映画ドラマ制作関係者は乗り出すべきだし、時代劇をつくってきた職人たちの高い能力をみすみす捨ててしまうことのないように大事にして欲しいと思う。
そして何より、観客の目が肥えることである。いつまでもテレビ局が仕掛けるくだらない商業映画に満足してはならない。人気芸能人がでるだけのドラマに満足してはならない。観客、視聴者をなめるなと突き放し、いいものを見たいと訴え続けることだ。

一度、著者の春日太一の企画で時代劇をつくってみたらどうだ。おそらく失敗するだろう。しかし、そこから見えてくるものが必ずある。今、テレビ・映画界に必要なのはちゃんとした失敗である。

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